昭和四十五年七月三日 朝の御理解
御理解第九十五節 「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」
神を売り物にする、例えばこの当たりの知られておる神様で、いろいろな専門専門があります。久留米の水天宮様は水難よけの神様として有名である。私共の子供の時には水天宮さんのお守りというのは、それこそ欠かす事の出来ない。夏にとりわけ子供の水難、水害が多いのでもう子供の首には必ず水天宮さんのお守りというのが、もう誰一人としてかけとらん者はおらん位にみんなかけておりました。今はあんまり見受けませんけれどもね。それでもやっぱり今でも、やはりそのお札が、水難よけのお札が出ますから、まあいうなら水難よけを売り物に水天宮様は、看板をあげてござるという事になりますねえ。
すると太宰府さんなんかどう云うかと云うと、試験の神様と。もう試験がある時にはあそこのお札を頂いて行かにゃ、あそこでいっぺん御祈願をしてもらわなきゃ、いわゆる頭が良くなる学業関係の神様。いわゆる文の神様として知られておりますから、そうでございましたですねえ。してみると、太宰府の神様は文の学業の又は試験の神様というような看板を上げてそれを売り物にしてござるという事も云えますねえ。
戦時中迄は久留米の高良山様と云や、それこそ武の神様として大変有名でしたから、それこそ全国津々浦々から子供が出征等致しますと、高良山様に祈願にみえたものです。いうなら武の神様、いわゆる武を売り物にしていわば看板をかかげておられる神様。最近はもう戦争という事はあんまり云わなくなったから、又看板を書き替えておられるような感じのするのが、今の高良山様じゃないでしょうかねえ。そういう意味に於いてもやはり神を売り物にしてはならんといったような事を、そういうような事を指されたのではないでしょうか。だからそこには御祈願米というのが、やっぱり千円二千円とそれぞれに金額が決められておって、やはり御祈念が違う訳ですねえ。そういうところを教祖様は銭金では拝まんとこう云うてある。お供えをするからしないからじゃない、という事になります。大体そのような事を九十五節では教えておられると思うのです。
そこでそんなら金光様の御信心はどうかという事になります。金光様は随分お祭りが多すぎると、教団の中でも云われる方がある位ですねえ。いろいろ性格が違う訳ですねえ。春は天地金乃神様の御大祭、夏の御大祭は夏作御礼、五穀豊穣諸当繁昌の祈願祭とされております。秋は教祖御大祭、冬の御大祭は報徳祭と云うていわば四神様のお祭りとも申します。というようにお祭りの性格はそれぞれに違います。この頃からの三十日は悪疫予防、交通安全と銘打っての大祈願祭でしたね。内容は古式にとって大祓式のように仕えられました。月にはここでは四回の月次祭が奉仕されます。というようになる程、続きたくりにお祭りお祭りである。
昨日は飯塚の古賀先生がお礼参拝してみえました。それでとにかくね「この頃からの大祓式はどうじゃったか」と「私の方では大祓式ではなくて、半年間のお礼祭として仕えられました」と、だからどこでもやはり性格が違う訳です。内容はやはり、はらえつものを作られましてね、やっぱりそれがあったという事でございます。だから内容はやはりお祓いという事になります。ここではもうひとつのはらえつものがありましたねえ。交通安全祈願ですから自動車の種類、ナンバーなんかを書き入れてそれを祈願さしてもらうという事です。それでね、うち当たりではここの教会が始まって以来だけれども、そういう内容をもって祈願祭を仕えさせて頂いておるが、いわゆるこの大祓式の時にはね、お祭りは大祭ほどにはないけれども、例えて云うとお初穂内容は御大祭と変わらんごとあるよと。そしたら「ほーっ」と云うてたまがっとります。「なしてでしょうか」「それはあんた交通安全のあれがあるから」もう交通安全のはらえつものだけはね、うちの御信者さん方が親戚やらに、「私の方にもお願いします、お願いします」という人が年々、段々おかげ頂いてきて、昨年もいっぺんお礼を拝んでもらっておったらもう本当に無事息災、自動車が事故ひとつ起こさずに済んだから、「今年もあのお祭りはまあだですか」と信心のない人達から催促される程しにおかげを受けておる。だから一人で多い人は二十枚も三十枚も隣、近所のを取りまとめてから持ってみえられる。ですからお参りはしてないけれども、信心はしてないけれども自動車の交通安全というような事だったら誰でも神経をとがらせておりますから、「どうでもお願いして下さい」というような事になって、そんならまあ云うならね、お祭りは多い方がよかろうがの、と私が。デパート当たりでは、一回でも何か口実をつけてから大売り出しをしたら、したがたあると云われております。だから「あんたどんも教会を開かせてもろうたら、一回でも多くお祭り仕えないけんよ」と私が申しました。あらゆる口実を設けてです、何々大祭、何々祈願祭というようにです、させて頂く、いうならばお道の信心の素晴らしいPRになる。例えば、交通安全の祈願祭等は信心の無い者でも、それぞれのやはりお願いをするからにはお初穂も言付けて、そして事実におかげを受けておるという事。お祓いを受けた受けないという事はね、私はその事を大祓の時にも申しましたように、祓うというだけでも素晴らしい事であるという事を気付かせて頂いた。祓うという事、例えて云うと蝿が目の前を飛んでおる、わずらわしいというて手ではらえば、はろうた間はやはりわずらわしくなかろうが。というように祓うという事は私共はやはり金光教的じゃないと思いよったから、けれどもやはり当時日本一と云われる程しの甘木の安武先生が、ある先生が「先生、この大祓式というのは金光教的じゃないですが、やっぱこげなお祓いした方がよかでしょうか」と云うて
尋ねられた時に安武先生がおっしゃった。「そうなあ、祓わんよりかよかばい」とおっしゃった。それを祓わんよりもよかという事を非常にどうでもよいような受け方をしている人がたくさんあるけれども、「古賀先生、そげなこつじゃなかばい、祓うと祓わんという事は、それは例えば紙一枚がた位かもしれん、けれども紙一枚、紙一重で災難にあったりあわんかったりがあろうが」ち。そしたら、
「本当 先生そうですね。」と云うてから「私は大祓式がそげな効果のあるものと知らなかった」と「問題はやっぱ徳を受けた者が祓わにゃいかん」「いいや徳受けん者が祓うたっちゃかんまん」と私が申しました。祓うたがたあるのだから。
してみると、お月次祭なんかでもお祓いを受けて、そしてお祭りを頂く位な気持ちがどうでも必要になってきますねえ。又本当にあのしでのさやぎのさやさやというさわやかなね、あのしでの神風と思われるようなお祓いを受けるのは実に気分がいいものですよ。その気分がよいというその事がおかげを受けるのです。だから内容がね、デパートが一回でん余計大売り出しをすりゃするがたあるようにお道の信心でもいっぺんでもお祭りを余計にすりゃあ余計するがたあるよって、まあこう申しますと、そんなら金光様の御信心でもやっぱり交通安全を売り物にしとるじゃないかという事にもなりますよねえ。ところがです、「此の方は銭金では拝まん」というところが違うのです。たくさんの中には、やはり、そんなら「私方もお願いします」と云うて頼まっしゃったけれども、はらえつものだけ言付けてからお賽銭も言付けなさらじゃったという人もあります。そんな事には全然、金光教は頓着しない訳です。
昨日なんかは、丁度近所に御不幸があったらしくて指出の久保山さんがお参りが出来てなかった。お願いをするつもりじゃったけれども、私家はあげな風で手ほどをしよったから、とうとうお願いが出来じゃったという人がありましたと云われるから、そんならば私がお願いをしとくけん、この御神米を下げて下さいとこう云う。例えば,合楽の金光様に心を向けておったけれどもある事情で出来なかったならば、そんなら御神米をその方に言付けて下さい。とそれが金光教の信心なんです。
私は、「古賀先生にはいっぺんでんデパートの大売り出しと同じじゃけん、いっぺんでも多くお祭りは仕えたがよかばい」と、そこだけを聞きよるとえらい商売気がある神様たいと聞こえますけれども、そうしなければおられんのである。 いわゆる金光教の本質とでも申しましょうか、金光様のいうなら神様とでも申しましょうか、御理解六節にありますように、「目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ。」というのが金光様の御信心。それが金光様の御信心の神様の御性格でもある。
云うなら宇宙いっぱいに偏満してござる神様。その神様でもこちらが願うという気になる、縋るという気になる。天地の親神様と、私共がそれを唱えて縋るところにです、私はどうしてもそれを形に表すのがひとつのお祭りという形式にもなってき、勿論お祭りの内容、性格はそれぞれのアクセントが持たされてありますけれどもね。けれどもその内容がです、銭金では拝まぬという生き方あり方こそが金光教の信心のいかにも神を売り物にして、云うならば学業、又は水難よけの神様といったようにしてです、水天宮さんが必ずお守りさんを発行されまして水難よけのお札が出ますが、それはいうなら水天宮様は水難よけという事を看板それを売り物にしての神様。天満宮様は試験の神様、文の日味噌間として学業に志す人達がお参りをしたりお祓いを受ける為に、それを看板にしてのその功徳というものは、それは分かりません。それは分かりませんけれども、云うなら専門専門がある。そこで私はこの九十五節を今日は聞いて頂きましたように頂きましたが「世には神を使うて食う者がある」とそこでこのところをですねえ、「世には神を使うて食う者がある」と、神様を使うという事はだからそういう事を戒めておられる、その内容を今日はここの中から感じます。
神を売って食うという事の例えば、他の神社仏閣当たりでやる、又は金光教で云うそれはやはり交通安全もあれば悪疫予防もある。ですから云うなら、それが看板のようであって金光教の場合は看板ではない。それは銭金では拝まんというところが違うのだと、そう祈らずには願わずにはおれないのだ。人の助かりの事を思うたら、やはり信心の無い人にでもはらえつものを配って御祈念をさせて頂かねばおられないというのが、金光教の信心である。だからそのへんのところの違いを、皆さん、よく感じて頂きたいと思うのですけれども、同時に今私が〔申します〕世には神を売って食うという事。それを世には神を使うて、いわば食うておる者が多いというような事をです、金光様の信心を頂いておっても、そういうような事になっておるような事はありはしないだろうか。
例えば「今から集金に行きます」と「どうぞ集金がよりますごと」まるきり神様を集金人のごと思うとる。という事にまでなるのじゃないでしょうか。同じ集金に行くでもです、どうぞこちらは頂かなければならない、向こうは払わなければならない。ですから先方がどうでも万事万端の上にご都合お繰り合わせを頂かれておかなければならない。先方の事を祈らなければおられない。これはもらうとか払うとか、これは当然それがなされなければならんところのです、スムーズを願う、それは自分だけの事ではない。相手の事までも願わせて頂くというところにです、お道の信心がある。向こうから金をとりさえすればよいという事じゃないという事。そんなら健康の事だってそうです。どうぞ健康にして下さいと云うて願うのは、まるきり神様を医者どんのごと思うとるという事になるのじゃないでしょうか。御神米やら御神酒さんはまるきりお薬のごと思うとる、そういう事じゃ決してないのです。お薬以上のお薬というものでもないです。そこで例えば、自分の健康なら健康の事を願わせて頂くでも、日頃の御礼の足りない事、どうでもなか時当たり前のごと思うとったが、さあ腹が痛む、足が痛む、頭が痛むという事になって初めてです、苦しいから神様お願いしますだけじゃあいかん。本当に日頃、健康であった時のお礼の足りなかった事のお詫びをさせてもらい、どうぞ健康にならして下さい、健康にならせて頂いた暁には、それが又神様にお喜び頂けれる、御用にお使いまわしを頂かしてもらう。使うのじゃない使うてもらうというところにお道の信心の違いがある。ですから、どうぞ病気を直して下さいというのは、金光様をまるきり医者どんのごと思うとると云うてもいい訳です。だからそこにちゃんと道を立てていかなければならん。集金に行きますけん集金が寄りますように、というのはまるきり神様を集金人のごと思うとる。そういう事ではないのです。だから世には神を売って食うではなくて、世には神を使う氏子という事になると金光様の御信者も含めて、ここには下さってあるという感じかします。
私共の願いというものの中に、又その内容がです、本当に只今私が申しましたように健康の事であるならば、もし現在不健康であるならば健康であった時のお礼不足、又は自分の不注意の為に不健康にならして頂いたとするなら、お詫びさしてもらわねばならん。それでもやはり痛い痒いから縋らなければおられないから縋るけれども、縋っておかげを頂いたならばその健康をもって、あなたの御用に使うて頂くという事にならにゃいかん。もう棒にもはしにもかからん、医者からも見離されとった病人が助けられた。おかげを頂いて助かって元気になったら健康になってから悪い事ばっかりしとる、といったような事ではいけないでしょう。健康にならせて頂いたおかげで信心が分からせてもらい、いわば神様の御用に使うて頂くという事。そこでそんなら此の方、此の方だけじゃない私共、神様に使われる事の為にしか神様は拝まん、神様のお喜び頂ける事の為にしか神様は拝まん。それはどういう難儀な事を願うても、その内容というものが神様に喜んで頂けるような、そこに気が付いたかと銭金の繰り合わせを願わせて頂くでも、そう只、銭金のお繰り合わせを頂くだけでなくて、日頃お粗末御無礼になっておるところをお詫びさしてもらい、銭金のお繰り合わせを頂いたならばそれを大事に又使わせて頂くといったような内容がです、あって初めてお繰り合わせを願うという事になるというのが金光様の御信心だ。そういう心でなからなければ、先ほど私が御理解を申しましたように「道を歩いておろうが、畑で肥をかけておろうが、神の中を分けて通りおるようなものじゃとおっしゃる。そういう神様、私共の上にいつもお守りを下さっておられる神様、そこから自ずと祈る内容も違ってこなければならない。神を商法にしてはならんぞと、いわば神を使うような信心ではならぬ。神に使われるような信心にならなければならないという事じゃないでしょうか。それをいつも申します言葉で申しますとです、神の用を足せば氏子の用は神が足してやるという、これは云うならば神様のお言葉。だからこれを私共の方から云うと、私共が神の用を足せば氏子の用は神が足してやるぞとおっしゃるような神様。そこに表れてくるおかげ、それをお道ではおかげと云うのですから、それは商法にしてという事ではないのでございます。
金光様でも、やっぱり同じじゃないかと、交通安全の祈願、悪疫予防の祈願、どこの神様だって同じじゃないかと云うけれども、それはもう本当にそうしなければおられない。それはね、祓うてもろうたというだけでも、いうならば紙一枚のおかげ、紙一重の事でおかげになったりならなかったり・・・・・
昨日、波多野さんが昼の夏期信行に参拝されるつもりでお参りされる時、ひとバス乗り遅れなさった。ところがどっか田主丸の向こう当たりでゴクッと何かショックがあったからハッと思うたら、途端にバスに普通の車が正面衝突しとる。それはもう目も当てられない惨状だったそうです。バスの乗客達が車の中の人を引き出す時に、自分の持っておった御神米を出して、御神米をその方の背中の中に押し込んで一生懸命拝んだと云いよんなさいます。そして「神様、相すまん事でございました。わざわざ今日はひとバス遅れさして頂いたという事はこういう事もあろうかと、神様がわざわざ私をひとバス遅らさして下さったのにもかかわらず、もう昨日ばっかりは本当に相すまん、祈りというものを感じました。」と云われますもん。もう自動車に乗ったが最後です。この自動車がどうぞ目的地に無事に着きまして、乗っておる乗客も一人一人がその目的の用をなされますように、どうぞ無事安全に目的地に着きますように、と乗ったら必ず祈ると云うのです。ところが先生、昨日ばっかりはそれをコロッと忘れとったと。もう本当にわざわざひとバス遅らさせて、私にそういう祈りをさせて下さるはずの神様がです、私がうかつにしておった事を、もう本当に昨日ばっかりは神様に相すまん事でございました。と云うので、昨日はここで無名の自動車の番号だけを控えたお届けがあったんです。ああいう災難に会われたけれども、どうぞ命だけでも取り留めなさるようにというようなお取り次ぎをさせて頂いたんですけれども、本当にその祈るか祈らないかという事は、そのように違うというものを実感したと、波多野さんが云うておられます。
ですから祓うと祓わないというような事が、そのような違いにもなってくるのですから、例えば赤の他人の誰彼、信心の無い誰彼にでもです、やはりこげな風で交通安全のお祭りがあるから、と話さなければおられん、又それを受けた方達はです、私が古賀先生にも云うたように、その内容はこちらは銭金では拝まん、拝まんけれども信心の無い人達でもたくさん、例えばお願いがあるからお初穂でもやはり大祭なみだったというようになる。それがね、銭金では拝まんと云うてそんならその銭金のところには私は全然、重きは置いてない。問題はなる程、いうならばほんにお参りすりゃよかった、私のもお願いすりゃよかったという、ここに心を向けている人の上になら、私はそれはそんなら特別御祈念の御神米を差し上げたい、又持って行ってやりたいというのが金光様の御信心、その内容は…だからもうそこに根本的に違うでしょうが。だから今日は、金光教の信心とはという事をだから聞いて頂いたように思うのです。だからなる程、形の上に於いてはお祭りがなる程多い。なる程、そのお祭りお祭りにはひとつの性格というものがある。けれども、その内容は今日私が申しましたような、神を使うのではなくて使われる事の為に、私共は信心させて頂いておるのだというような事を分かって頂きたいと思います。どうぞ。